日本代购
金の錨、時の微睡み
序章:眠れぬ海賊王の孤独
令和の大阪。その猥雑(わいざつ)でエネルギッシュな心臓部とも言える西成の夜は、他のどの街とも異なる独特の色彩と匂いを帯びている。アスファルトに長年染み込んだ安酒の甘ったるい発酵臭、高架下で行き交う日雇い労働者たちの押し殺したような会話、そして、明日という日を信じることを諦めた者たちが吐き出す、重く澱(よど)んだ沈黙。それらが混沌とした黒い海流のように渦巻くこの街の頂点に、一人の老人が君臨していた。
その男の名は、村上兼司(むらかみけんじ)。
人々は彼を、畏怖と、羨望と、そして隠しきれない侮蔑を込めて「西成の金融王」と呼ぶ。表向きは不動産管理会社と投資コンサルティング会社の会長という、社会的に成功した紳士の仮面を被っている。しかし、その真の力の源泉が、法という名の網の目を巧みに潜り抜け、弱者の骨の髄までしゃぶり尽くす非情な金融ビジネスによって築き上げられたものであることを、この界隈で知らぬ者はいなかった。
だが、兼司自身の自己認識は、世間の評価とは大きく異なっていた。彼は自らを、現代に蘇った「海賊」だと信じて疑わなかった。かつて瀬戸内の海を縦横無尽に駆け巡り、時の権力者である織田信長の水軍さえも木っ端微塵に打ち破った、伊予の村上水軍。その血を引く末裔であるという事実は、彼のアイデンティティの根幹を成す、揺るぎない矜持(きょうじ)だった。
「強い者が奪い、生き残る。弱い者はただ、海の藻屑(もくず)と消えるのみ」。それが彼の信じる唯一の掟であり、ビジネスにおける絶対的な鉄則だった。彼は獲物を狙う海賊船の船頭のように市場の潮目を見定め、好機と見れば全財産を賭して敵対的買収を仕掛け、抵抗する者は徹底的に、再起不能になるまで叩き潰してきた。その容赦のなさは、まさに荒ぶる海の覇者そのものであった。
天王寺にそびえ立つ日本有数の超高層ビル、あべのハルカス。その最上階のレストランの灯りさえも眼下に見下ろす、タワーマンションのペントハウス。外界の騒音を完全に遮断する分厚い防音ガラスに守られた城で、兼司は今夜もまた、イタリアの最高級ブランドが仕立てた、肌を滑るように心地よいシルクのリネンの上で、虚ろに漆黒の天井を見つめていた。
齢七十。金で買えぬものはないと嘯(うそぶ)き、実際にこの世の春を謳歌してきた。一本数十万円は下らない年代物のワイン、世界中から取り寄せた美食、彼の意のままになる若く美しい女たち、そして、選挙のたびに金の無心に来る政治家さえも頭を下げる権力。しかし、瀬戸内の荒波を自在に操ったであろう偉大な祖先とは違い、彼には決して乗りこなすことのできない、荒れ狂う内なる海があった。そして、その心の海は、彼から「安らかな眠り」という名の、魂が唯一停泊できる凪(な)いだ港を、数十年も前に奪い去っていた。
慢性的な、そして重度の不眠症。それは彼の長年の伴侶であり、夜ごと彼を苛(さいな)む最も忠実な拷問官だった。瞼(まぶた)を閉じれば、万華鏡のように過去の光景が脳裏で回り出す。彼が海の藻屑として沈めてきた者たちの恨めし気な顔、踏み躙(にじ)ってきた数多の約束、裏切った友の最期の言葉。そして、自らの手で錨(いかり)を切り、永遠に置き去りにしてきたはずの、温かい陽だまりのような、二度と戻らない記憶。
それらが、悪夢というにはあまりに生々しい質感とリアリティを伴って、彼の意識を覚醒の淵に釘付けにするのだ。村上水軍の末裔としての誇りが、心の奥底で囁き続ける。「お前は、誇り高き海の民の血を汚した卑怯者だ」と。
主治医が匙(さじ)を投げ気味に処方する最高ランクの睡眠導入剤は、とうにその効力を失っていた。今では、一本数万円もする高価なミネラルウォーターで錠剤を流し込む行為そのものが、荒れ狂う魂の海を鎮めるための、虚しく、そして気休めにさえならない儀式でしかなくなっていた。
「くだらん…何もかも、くだらん」
闇に響く声は、誰に聞かせるでもなく、乾いた砂のように崩れ落ちた。彼の太く、しかし老いにより皮膚が弛(ゆる)み、無数の老人性色素斑が浮かぶ腕に、ずしりと重い、冷たい金属の感触があった。
数週間前、海外の富裕層向けのプライベートオークションで、新興国の成り上がりと最後まで競り合い、金の力でねじ伏せて競り落とした逸品。18金無垢の喜平ブレスレットである。
そのスペックは、もはや宝飾品というよりは、一つの資産、あるいは武器と呼ぶにふさわしいものだった。幅10.9mm、重さ97.0g。腕に巻けば、まるで黄金の手錠のような圧倒的な存在感を放つ。熟練の職人が気の遠くなるような時間をかけて、寸分の狂いもなく組み上げた、滑らかな動きを見せるチェーン。その一コマ一コマの表面には、極上の天然ダイヤモンドがパヴェセッティング(石畳のように隙間なく敷き詰める技法)されていた。トータル1.53カラット。部屋の常夜灯のわずかな光さえも貪欲に拾い上げ、冷たく、そして鋭い、権力の象徴たる輝きを放っている。
最高級のセレブリティモデル。それは、かつて海を支配した祖先の権威を、現代のコンクリートジャングルで誇示するための、彼にとっての「王の鎖」だった。これほどのものを身に着けられるのは、この大阪で自分しかいない。その絶対的な優越感に浸るために手に入れたはずだった。
だが、皮肉なことに、このブレスレットを手にしてからというもの、彼の不眠はさらに深刻さを増していた。まるで、この97グラムの金の塊が、彼の七十年間の人生で犯してきた罪のすべてを吸い上げ、その凝縮された重力で、彼を眠りの安息から引き離し、覚醒という名の岩礁に縛り付けているかのようだった。重い。あまりにも、重すぎる。魂が、この金の重さに耐えきれずに悲鳴を上げていた。
無意識に、彼はブレスレットを外そうと、精巧に作られたクラスプ(留め金)に指をかけた。
その瞬間だった。
ふと、無数に埋め込まれたダイヤモンドの一粒に、奇妙な光が宿った気がした。それは、人工的な照明の反射ではない。遠い昔、故郷・伊予の海で見た、夜明け前の海面に揺れる漁火(いさりび)のような、どこか懐かしく、そして儚(はかな)い、有機的な温かみを持った光だった。
疲労による幻覚か。彼は霞(かす)む目をこすり、もう一度その宝石を見つめた。やはり、微かに脈打つように光っている。彼は何かに導かれるように、その冷たい宝石の表面を、硬くなった親指の腹でそっと撫でた。
すると、信じられないことが起きた。
ダイヤモンドに触れた指先から、微弱な電流のような、しかしもっと穏やかな波動が伝わり、瞬く間に全身を駆け巡った。直後、抗いがたいほどの強烈な眠気が、まるで穏やかな春の瀬戸内海の満ち潮のように、数十年ぶりに彼の心身を包み込んだのだ。
さっきまで呪いのように感じていた金の重みが、不思議と心地よい。それはもはや、罪を縛る鎖の重さではなく、嵐の海で船を安定させるための「錨」の重さであり、幼い頃に母の腕に抱かれていた時のような、絶対的な安心感だった。
思考が急速に溶けていく。抗う気など起きなかった。彼は安堵のため息とともに、ゆっくりと意識を手放した。暗闇が訪れる直前、彼の脳裏に、チンチン、という、遠い日の路面電車の警笛と、懐かしい潮の香りが、微かに、しかし鮮やかに混じり合った気がした。
第一章:昭和の残光、失われた凪の港
目が覚めた、という感覚ではなかった。それは、分厚い海霧が朝陽を浴びてゆっくりと晴れ渡り、ぼやけていた水平線が鮮明に姿を現すように、世界が静かに、しかし力強く立ち上がっていくような、不思議な覚醒だった。
(どこだ…ここは…わしの寝室やない…)
兼司の目に最初に映ったのは、見慣れたタワーマンションのミニマルで洗練された天井ではない。雨漏りのシミが古い世界地図のように広がった、古びた板張りの天井。鼻腔をくすぐるのは、高級アロマディフューザーの香りではなく、黴(かび)と湿った土壁、そしてどこかの部屋から漂う煮炊きの匂いが混じり合った、強烈な生活臭そのものだった。頬を撫でる、ガタついた木枠の窓の隙間から吹き込む冷たい風。天井から一本だけぶら下がった裸電球が、頼りない黄色い光を投げかけている。
ここは、六畳一間の安アパートの一室だ。万年床のように煎餅(せんべい)布団が敷きっぱなしになり、部屋の隅には古新聞の束と、空になった安酒の一升瓶が転がっている。中央にあるのは、表面がささくれ立ったちゃぶ台だけ。
窓の外からは、先ほど意識が遠のく直前に聞いた、チンチン電車の走行音と警笛が、今度ははっきりと、生々しい音量で聞こえてくる。車の排気音、人々の怒鳴り声、猥雑な活気と喧騒。
「…昭和三十年代の、西成か」
口をついて出た呟きは、自分自身の耳を疑うほど若く、張りのあるバリトンだった。喉の奥から湧き上がるような、有り余る生命力。
兼司は跳ね起きるように布団から出た。身体が驚くほど軽い。関節の痛みも、慢性的な倦怠感もない。恐る恐る自分の手を見下ろす。七十年の歳月が残酷に刻んだ深い皺と無数のシミは跡形もなく消え去っていた。そこにあったのは、節くれ立ってはいるが、日雇いの重労働で鋼のように鍛え上げられた若々しい筋肉と、何かを掴み取ろうとする欲望と力が漲(みなぎ)る、二十代の男の手だった。
部屋に鏡はない。だが、これが二十歳前後の自分であると、兼司は理屈ではなく、魂の深い部分で瞬時に理解した。
夢だ。しかし、今まで見てきた断片的な悪夢とは決定的に違う。あまりにも鮮明で、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、そのすべての五感が、凄まじい解像度で情報を拾い上げる、超高精細な夢。まるでタイムスリップしたかのようなリアリティ。
彼は、何かに突き動かされるように、その古いアパートの外に出た。木造の階段がきしむ音さえも愛おしい。外に出た途端、強烈な西成の空気が彼を包み込んだ。泥と埃、安食堂から漂うホルモンを焼く脂の匂い、そして明日を生きようとする人々の汗と熱気。
まだ戦後の闇市の面影を色濃く残す商店街は、混沌としたエネルギーに満ち溢れていた。行き交う人々は皆、貧しい身なりをしていた。ツギハギだらけの服、擦り切れた靴。しかし、その目には、現代の人々が失ってしまった、ギラギラとした野心と、明日を信じて疑わない力強い光が宿っていた。
そうだ、ここがわしの原点だ。
故郷の伊予の小さな漁村を飛び出し、「村上水軍の末裔が、こんな小さな入江で一生を終えてたまるか」と、身一つで大阪に出てきた。しかし、過去の栄光など、このコンクリートの海では何の役にも立たなかった。信じていた同郷の友人に、事業資金として貯めていた有り金をすべて持ち逃げされ、食い詰めた。そして流れ着いたのが、この西成の地だった。
夢の中で、兼司は過去の自分自身を追体験していた。しかし、それは完全にコントロールできるものではなく、どこか三人称視点の映画を見ているような、客観的な感覚も混在していた。
汗と油と泥にまみれて建設現場で働き、親方から罵声を浴びながらも歯を食いしばる。日払いで受け取ったわずかな日銭を握りしめ、屋台のホルモン焼きとコップ酒で、束の間の空腹と底知れぬ孤独を癒す。
若き日の村上兼司の腹の底には、マグマのようなドス黒い野心が燃えたぎっていた。「いつか見ておれ。わしを馬鹿にした奴ら全員、わしの足元にひれ伏させてやる」。その反骨心だけが、彼を突き動かす燃料だった。彼の脳裏には、常に故郷の凪いだ瀬戸内の海の原風景があった。美しく、豊かな海。しかし、今の彼にとって、この西成という街は、一瞬でも気を抜けば飲み込まれる、常に荒れ狂う嵐の海だった。泳ぎ続けなければ、死ぬ。
その時だった。
夕暮れ時の雑踏の中、仕事を終えてアパートに戻る道すがら、ふと、一人の女性(ひと)とすれ違った。古着を丁寧にリメイクしたであろう、質素だが清潔感のある木綿のワンピース姿。買い物籠を下げ、少し疲れたような、しかし穏やかな足取り。
彼女がふと足を止め、振り返った瞬間、七十歳の兼司の意識は、心臓を鉄の鉤爪で鷲掴みにされたかのように激しく痛んだ。
結城(ゆうき)さち。
その名前が、記憶の底から浮上すると同時に、どうしようもない愛しさと、焼き尽くすような後悔が津波のように押し寄せた。
彼の荒みきり、ささくれ立った心にとって、唯一の「凪いだ港」のような存在だった女性。近所の小さな大衆食堂で働いていた彼女は、いつも作業着姿で腹を空かせ、殺気立った目をしていた若い兼司に、何も言わずにご飯を大盛りにしてくれた。
「村上君、あんまり無理したらあかんで。体壊したら元も子もないえ」
「ちゃんと食べや。お代は出世払いでもええから」
その屈託のない笑顔と、優しく包み込むような声は、日々の重労働と人間関係の軋轢(あつれき)という荒波に揉まれ続ける彼の魂を、束の間、穏やかな入江に導き、休ませてくれる唯一の救いだった。彼女の前でだけは、兼司は「水軍の末裔」という虚勢を張る必要がなかった。
夢の中のシーンが切り替わる。安アパートの部屋で、さちが握ってくれたおにぎりを食べている。塩加減が絶妙な、温かいおにぎり。
「うまいか?」
「ああ、うまい。さちの握り飯は、日本一や」
「ふふ、大げさやな。村上君は」
彼女の笑顔を見た瞬間、若い兼司は本気で思った。この女(ひと)のためなら何でもできる。この温かい港を、わしの手で守り抜きたい、と。
だが、現在の兼司の意識は知っている。その誓いが、いかに脆(もろ)く、そして自分自身のエゴによって踏みにじられるかを。彼は、自らの野心のために、最も残酷な形で、この港に自ら火を放ち、破壊することになるのだ。
変えられない過去の美しい断片。それは、これから訪れる破局を知っている者にとっては、どんな悪夢よりも残酷な責め苦だった。
「さち…」
夢の中の兼司は、まだ幸せの中にいる。しかし、七十歳の兼司の魂は、透明な壁の向こう側から、その光景を涙ながらに見つめることしかできなかった。
どれほどの時間が経ったのか。夕闇が迫り、遠くで響いていたチンチン電車の警笛が、まるでフェードアウトするように小さくなっていく。街の喧騒が遠のき、それに合わせるように、彼の意識もまた、ゆっくりと深い闇の中へと溶けていった。
ハッと目を覚ますと、そこはいつものタワーマンションの寝室だった。
空調の効いた快適な室温。静寂。高級リネンの感触。
しかし、何かが決定的に違っていた。
ここ数十年、一度として感じたことのない、泥のように深く、そして信じられないほど心地よい熟睡感。脳の芯にこびりついていた重い鉛のような疲労が綺麗に洗い流され、霧が晴れたように頭が冴え渡っている。身体の節々の痛みも消え、まるで全身の細胞が一つ残らず生まれ変わったかのような、瑞々(みずみず)しい爽快感があった。
「…寝たのか?わしは」
まるで、十時間以上も泥のように眠り続けた後のようだ。恐る恐る、ベッドサイドのデジタル時計に目をやる。
午前二時。
眠りについてから、まだ二時間しか経過していなかった。たった二時間で、これほどの回復をもたらす睡眠。
腕には、あの喜平ブレスレットが、変わらぬ物理的な重みで鎮座していた。常夜灯に照らされたダイヤモンドが、冷ややかに、しかしどこか意味ありげに光っている。
「こいつの…せいか?」
あのダイヤモンドの光は、悪夢の入り口への誘導灯ではなく、極上の眠りへの扉を開く鍵だったのか。
あれほど鮮明な過去の夢。そして、この信じがたいほどの熟睡感。これは、ただの夢や偶然ではない。兼司は直感した。この「王の鎖」が、彼に過去を見せ、そして、今までどれだけ金を積んでも決して買えなかったはずの、至上の安息を与えているのだと。
第二章:ブランドクラブと宝石の記憶(メモリー・オブ・マテリアル)
その日から、兼司の生活は一変した。
彼にとって、夜はもはや孤独と恐怖に満ちた拷問の時間ではなく、過去への航海へと旅立ち、荒れた魂を癒すための神聖な儀式となった。彼は、太陽が沈み、夜が来るのが待ち遠しくてたまらなかった。
ブレスレットを腕に巻き、ダイヤモンドに触れ、眠りに落ちる。すると、彼は必ず昭和の西成へとタイムスリップした。
夢は、時系列に沿って進んでいった。日雇い労働で必死に貯めた金と、危ない橋を渡って手に入れた資金を元手に、小さな貸金業「村上商事」の看板を掲げた頃。
「金こそが力や。水軍の武力が、この時代では金なんや」
そううそぶき、友を欺き、弱きを脅し、法律の隙間を縫って金を巻き上げる。若き日の自分の非道な所業を、彼はまるで教会の懺悔室の小窓から覗き見る神父のように、あるいは舞台の袖から見つめる演出家のように、詳細に追体験し続けた。
借用書に判を押させる瞬間の、相手の怯えた目。取り立ての際の、自分の冷酷な声。それらは胸をえぐるような光景だったが、不思議なことに、夢から覚めた後の彼は、かつてのような嫌悪感や自己否定に押し潰されることはなかった。むしろ、澱(おり)のように魂の底に溜まっていた膿(うみ)が、少しずつ排出され、浄化されていくような感覚があった。
そして、その罪深い日々の傍らには、いつも、心配そうに、次第に悲しみの色を深めていく瞳で彼を見つめる、さちの姿があった。彼女の存在が、彼を夢の世界に繋ぎ止める錨となっていた。
睡眠の質が劇的に改善されるにつれ、日中の兼司の様子も変わっていった。常にピリピリと張り詰めていた神経が和らぎ、部下たちを怒鳴り散らすことも減った。思考は明晰さを取り戻し、経営判断も冴えを見せた。
そして、彼は純粋な知的好奇心と、得体の知れない力への畏怖から、このブレスレットの正体を突き止めたくなった。なぜ、このような超常現象とも言えることが起きるのか。単なる老人の幻覚やプラシーボ効果で片付けられる話ではない。
彼は、オークションの際に付属していた「NGL(ノーブル・ジェム・グレーディング・ラボラトリー)」の宝石鑑別書の控えと、出品者の情報を頼りに、独自に調査を進めた。そして、一つの宝飾店に行き着いた。
大阪・南船場。
欲望と人情が剥き出しで渦巻く西成とは対極にある街。御堂筋から一本入った通りには、ハイブランドのブティックや洗練されたカフェ、ギャラリーが静かに軒を連ねる。その一角に、まるでヨーロッパの裏路地にある隠れ家的なアトリエを思わせる、瀟洒(しょうしゃ)な佇まいのジュエリーショップ「ブランドクラブ」はあった。
重厚なガラスの自動ドアが開くと、外界の喧騒が遮断され、静謐な空気が流れる店内に入った。アンティークの什器(じゅうき)と、計算され尽くした照明。
「いらっしゃいませ」
澄んだ鈴のような、しかし落ち着きのある声が彼を迎えた。店の奥から現れたのは、清楚なネイビーのワンピースに身を包んだ若い女性だった。年は二十代半ばだろうか。透き通るような白い肌と、意志の強さと知性を感じさせる、長いまつ毛に縁どられた大きな瞳が印象的だった。
「このブレスレットについて、聞きたいことがある。責任者はおるか」
兼司は、威圧的な態度を崩さず、挨拶もそこそこに、腕に巻いていた喜平ブレスレットを外した。大理石のカウンターの上に、ゴトリ、とわざと音を立てて置く。97グラムの金の塊が放つ鈍い音が、静かな店内に響き渡る。
女性は一瞬、その圧倒的なまでの金の質量と、暴力的なまでに輝くダイヤモンドの光に目を見張った。しかし、すぐにプロフェッショナルの穏やかな表情に戻ると、白い手袋をはめ、恭しく、まるで壊れ物を扱うようにブレスレットを手に取った。
「…見事な、お品ですね。これほどの重量と純度を持つ18金無垢の喜平に、完璧なパヴェセッティング。ダイヤモンドも、ルーペを通さずとも分かります。一粒一粒がVSクラス以上の、極上のものばかりです。まさに、選ばれた方のためのジュエリーです」
「世辞はいらん。この鑑別書にあったNGLというのは、あんたのところと関係があるんか?」
「いえ、そちらは宝石の鑑別を専門に行う第三者機関です。私どもは販売と、オーダーメイドの製作、リフォームを行っております。ですが…」
彼女は言葉を切り、眉を少しひそめた。
「このお品、どこかで見覚えがあるような…少し、拝見してもよろしいでしょうか」
彼女は、水瀬沙耶(みなせさや)と名乗った。若くしてこの歴史ある店の店主を務めているという。沙耶は、首から下げた宝石鑑定用の10倍ルーペを手に取ると、ブレスレットのクラスプ(留め金)の裏側、肉眼では判別できない微細な部分を、丹念に調べ始めた。
数秒の沈黙の後、彼女は「ああ…」と、確信と懐かしさが入り混じったような、小さな息を漏らした。
「やはり、間違いありません。これは、私の祖父の作品です」
「あんたの爺さんの?」
「はい。祖父、水瀬正太郎は、もう十年前に亡くなりましたが、戦後からこの南船場で店を構え、知る人ぞ知る、腕利きの宝飾職人(マイスター)でした。ここをご覧ください」
彼女がルーペ越しに指し示した場所には、極小の、桜の花びらを一枚だけ模した刻印があった。
「これは祖父が、特に思い入れのある作品、魂を削って作った作品にだけ刻んだ、隠し署名(シークレット・サイン)なんです」
沙耶はルーペを置き、兼司の目を真っ直ぐに見て言った。
「祖父は独自の、少し変わった哲学を持っていました。『貴金属や宝石には、持ち主の強い記憶や感情が宿る』と、本気で信じていたんです」
兼司は思わず鼻で笑った。「記憶が宿る、だと?骨董屋がよく言う、いわくつきの商品ってやつか。まるでオカルトだな。わしはそんな非科学的な話は信じん」
沙耶は、彼の冷笑に動じることなく、穏やかに微笑んだ。その笑顔には、どこか学者のような自信が滲んでいた。
「オカルト、と一言で切り捨ててしまうのは簡単です。ですが、近年、祖父の感覚的な哲学を裏付けるような、非常に興味深い学術的な考察もなされているのをご存じですか?」
彼女は、店の奥から香り高い上等な玉露と茶菓子を運んでくると、兼司に勧めた。そして、ゆっくりと、噛み砕くように語り始めた。
「例えば、『Journal of Material Consciousness Studies(物質意識研究ジャーナル)』という学術誌に数年前に掲載された、ドイツの量子物理学者、アリス・トルン博士らの論文があります。彼らが提唱したのは『情動量子インプリント(Emotional Quantum Imprinting)仮説』というものです」
「量子…インプリント?」聞き慣れない単語に、兼司は眉を寄せた。
「はい。簡単に申し上げますと、金(ゴールド)や白金(プラチナ)といった貴金属は、非常に密度が高く、安定した結晶構造を持っています。トルン博士らは、この安定した構造体が、外部からの強い情念――つまり、持ち主が抱く激しい喜び、深い悲しみ、あるいは焼けるような後悔といった強い感情によって生じる、特殊な微弱生体電磁気パターンを、一種の量子情報として結晶格子内に記録(インプリント)する可能性がある、と主張しているのです」
沙耶は、ブレスレットのダイヤモンドを指先で示した。
「特に、ダイヤモンドは地球上で最も硬く、完璧な炭素結晶構造を持っています。これは、外部からのノイズに非常に強く、一度記録された情報を半永久的に保持する、極めて優秀な『記憶媒体』になり得る、とも言われています。言わば、感情のハードディスクのようなものです」
兼司は黙って茶をすすった。荒唐無稽なSF小説の話のはずだ。しかし、目の前の聡明な女性が真剣な眼差しで語ると、それは紛れもない最先端の科学的事実のように聞こえてくる。彼自身の体験――ブレスレットに触れた時の電流のような感覚、鮮明すぎる夢――が、その仮説を裏打ちしていたからだ。
「祖父は、学者ではありませんでしたから、そんな難しい理論は知りませんでした。でも、何千、何万という宝石と人を見てきた職人としての経験から、それを肌で感じ取っていたんだと思います。『金や石は、ただの冷たい物質やない。何億年もかけて地球が育んだ記憶と、それを手にした人間の想いを吸い込んで生きている、証人なんや』と、それが口癖でした」
沙耶の声が、少し低くなった。
「このブレスレットも、おそらく製作された時、あるいは長く身に着けていた間に、持ち主の、人生を揺るがすほどの非常に強い想いが込められたのでしょう。お客様が、このブレスレットを身に着けて眠りにつき、脳波がシータ波(夢を見ている時や深い瞑想状態に現れる脳波)の状態になった時、その脳波の特定の周波数が、ブレスレットに記録された量子情報と共鳴現象を起こす。そして、保存された記憶データが脳内に再生され、まるで自分の体験のように追体験する…『物質記憶共鳴(マテリアル・メモリー・レゾナンス)』と呼ばれる現象が起きている可能性があります」
そこで、沙耶はふと兼司の顔をじっと見つめ、少し躊躇(ためら)いがちに口を開いた。
「大変失礼なことをお伺いするかもしれませんが…お客様のお名前は、村上様とおっしゃいましたね。その鋭い眼光、身に纏う雰囲気…ひょっとして、伊予の村上水軍にご縁のある方ではありませんか?」
兼司は湯呑を持つ手を止めた。驚きを隠せず、沙耶を見返す。
「…なぜ、それを。わしは名乗った覚えはないぞ」
「祖父は歴史が好きで、特に関西の歴史、瀬戸内の海賊衆の話をよく私にしてくれました。『彼らはただの無法者ではない、独自の掟と誇りを持った海の武士だ』と。村上様が店に入ってこられた時、どこか現代人離れした、荒々しくも気高い、海の覇者のような気配を感じたものですから…。もしそうだとすれば、お話はもう少し深くなります」
「どういうことだ」
「海賊たちが命懸けで手に入れた財宝には、持ち主の強い念が宿り、数々の伝説や、時には呪いを生むという話は世界中にあります。もし、村上様がその血を引いておられるなら、貴金属(マテリアル)との共鳴能力が、常人よりも高いのかもしれません。血は、DNAだけでなく、魂の記憶も運びますから」
沙耶の言葉は、兼司の心の奥底にある、彼自身も認めたくなかった「水軍の末裔」としての矜持と、それに対する裏切りの意識を正確に射抜いていた。
「前の持ち主の強い念、か…」兼司は、沙耶の言葉を反芻し、ブレスレットを見つめた。「このブレスレットは、わしが海外のオークションで競り落としたもんや。前の持ち主がどこの誰か、どんな想いを込めたかなど、知る由もない」
沙耶は、その大きな瞳で、静かに、しかし深く兼司の瞳の奥を覗き込んだ。
「では、お客様ご自身の記憶、ということは考えられませんか?」
「なに?」
「他人の記憶ではなく、ご自身の、心の最も深く暗い場所に、何十年もかけて封じ込め、鍵をかけてきた、強い、強すぎる記憶。それと、このブレスレットが何らかの形でリンクし、共鳴している…という可能性です」
ドクン、と兼司の心臓が大きく跳ねた。雷に打たれたかのような衝撃が全身を貫く。
自分の、記憶?
そうだ。あの夢で見る光景は、見知らぬ誰かのドラマではない。紛れもなく、村上兼司自身が歩んできた道だ。自分が体験し、選択し、切り捨て、そして忘れたふりをし続けてきた、忌まわしい過去そのものだ。
このブレスレットは、見ず知らずの他人の記憶を見せているのではない。村上兼司自身の封印された過去を、鏡のように彼自身に突きつけているのだ。
兼司の声が震えた。喉がカラカラに渇いていた。
「このブレスレットは…一体、いつ頃、作られたもんだ?」
沙耶は、カウンターの下から取り出した古い革張りの台帳を開きながら答えた。
「祖父の隠し刻印のスタイルと、使用されている地金の配合、当時の製作記録を照らし合わせますと…おそらく、今から四十数年前。昭和五十年代前半の作品だと思われます」
昭和五十年代。
兼司が、西成の荒波を乗りこなし、自らの「王国」を築くために、最も汚く、非情な仕事に手を染め、悪鬼の如く振る舞っていた時代。
そして…彼が、結城さちという名の唯一の凪の港を、永遠に失った、あの決定的な時代だった。
第三章:罪と罰の円環、魂の告白
その夜、兼司が見た夢は、これまでのどの夢とも比較にならないほど鮮明で、そして、魂を切り裂くほどに残酷なものだった。
彼は、昭和五十年代の西成、雑居ビルの薄暗い一室にいた。
部屋の中は、安タバコの紫煙と、人間の欲望と絶望が入り混じった淀んだ空気で満ちていた。壁には、返済を迫る恫喝めいた文句が殴り書きされた紙が、何枚も無造作に貼られている。錆びついた鉄の扉の表には、ペンキで「村上商事」と書かれた看板が掲げられていた。
闇金融。彼が築き上げた、血と涙でできた帝国の、忌まわしい原点となる場所。
若き日の兼司は、安物の革張りの社長椅子に、尊大な態度でふんぞり返っていた。派手なスーツを着込み、金のネックレスを下げているが、その目は飢えた獣のように鋭く、冷たい。
彼の目の前では、一人の男が額を汚れた床にこすりつけ、土下座をしていた。
男の名は、正彦といった。
かつて、日雇い労働の現場で共に汗を流し、一つの缶コーヒーを回し飲みし、「いつか二人でビッグになったる」と夢を語り合った、数少ない友人だった。彼らは共に、この西成の底辺から這い上がることを誓った同志だった。
しかし、正彦は真面目すぎた。小さな町工場を立ち上げるという夢に挑んだが、不況の波と大手の圧力に押し潰され、倒産寸前に追い込まれた。家族を、幼い子供を養うために、彼は最後の手段として、友であるはずの兼司を頼り、法外な金利であることを承知で金を借りたのだ。
「兼司、頼む!この通りや!あと一カ月、いや、半月でええ!もう少しだけ待ってくれ!大口の入金があるんや。そしたら必ず、利子もつけて必ず返すから!」
正彦の声は涙で濡れ、必死の形相で懇願していた。
しかし、椅子に座る若い兼司の表情筋は、一つとして動かなかった。彼は、氷のように冷たい目で、足元の友を見下ろしていた。
「いつ返すんや、正彦。お前の言う『いつか』や『必ず』は、もう聞き飽きたわ。そんなもんは、一生来んのやろ。お前の夢は、しょせん夢で終わりや。ここは海や。泳げん奴、力のうなった奴は沈む。それが掟やろが」
兼司は、わざとらしくため息をつき、タバコの煙を正彦の頭上に吐き出した。「水軍の末裔」という自負が、ここでは「弱肉強食を正当化するための歪んだ論理」にすり替わっていた。情けをかければ、自分が食われる。
その時、事務所の扉が開き、一人の女性が飛び込んできた。
結城さちだった。
彼女は、正彦の幼馴染でもあり、兼司に金を借りる際、正彦に泣きつかれて連帯保証人の判を押していたのだ。彼女の顔からは血の気が引き、唇は青ざめて震えていた。
「村上さん、お願いです!やめてください!」
さちは正彦の横に膝をつき、兼司を見上げた。かつてのような温かい眼差しはそこにはなく、あるのは恐怖と、信じられないものを見る目だった。
「正彦さんには、まだ小さい子供もいるんです。ここで追い込んだら、一家心中してしまいます。どうか、彼を許してあげてください。私が、私が代わりに少しずつでも働いて返しますから!」
「さち、お前は黙っとれ」
兼司の声が低く唸った。さちが正彦を庇う姿に、嫉妬にも似たどす黒い感情が渦巻いた。
「これはお遊びや感傷やない、商売や。契約は絶対や。一円でも足りんかったら、保証人のお前にも責任とってもらう。身体売ってでも払ってもらうことになるんやで」
七十歳の兼司の意識は、絶叫していた。「やめろ!それ以上言うな!取り返しのつかんことになるぞ!」
しかし、夢の中の時間は無情に進む。この時のことを、兼司は一日たりとも忘れたことはなかった。人生最大の分岐点。
彼は、さちの必死の涙と制止を振り切り、控えていた強面の部下たちに顎で合図を送った。
「やれ。見せしめや。きっちりケジメとらせんかい」
それは、新興の金融屋としてこの街でナメられないための、残酷なパフォーマンスだった。友だろうが、かつて愛した女が庇おうが、容赦はしない。「村上の取り立ては鬼や」。その評判こそが、彼が欲したブランドだった。
夢の中の兼司は、その一部始終を、金縛りにあったようにただ見ていることしかできない。屈強な男たちに襟首を掴まれ、裏の部屋へと引きずられていく正彦の、絶望と、信じていた友への深い憎しみが混じった最期の目。その場に泣き崩れ、過呼吸を起こすさちの、細い肩の激しい震え。
そして、若い兼司が「これでええんや」と自分に言い聞かせ、さちに近づこうとしたその時。彼女が顔を上げ、彼を射抜いた。
その瞳には、もはや恐怖さえもなかった。あったのは、底知れぬ軽蔑と、深い深い悲しみだけだった。
「…あなたとは、もう二度と会いません。あなたは、村上水軍の誇りなんてとっくに捨てた、ただの金に魂を売ったケダモノや」
静かな、しかし決定的な断絶の言葉。それが、彼女が彼に残した、最後の肉声だった。
場面が暗転する。
その後、風の噂が届く。追い詰められた正彦が、家族を残し、自ら命を絶ったこと。そして、さちが誰にも行き先を告げず、まるで最初から存在しなかったかのように、西成の街から忽然と姿を消したこと。
彼は勝った。金を回収し、恐怖とい名の名声を手に入れた。しかし、その代償として、かけがえのない友の命と、生涯で唯一心から愛した女性を、同時に、そして自らの手で永遠に葬り去ったのだ。
その、決して消えることのない罪悪感という名の鉛の塊こそが、数十年にわたって彼の魂を蝕み続け、不眠という罰を与え続けてきた根源だった。
(わしは…わしは、なんということを…取り返しのつかん過ちを…)
夢から覚めた兼司は、自分の嗚咽で息ができなくなっていた。
高級なシルクの枕が、冷たい涙と鼻水でぐっしょりと濡れている。老人になってから、いや、物心がついてから、これほど激しく、子供のように泣きじゃくったことはなかった。
腕に食い込む喜平ブレスレット。97グラムの金の重みが、もはや心地よい錨などではなく、彼が犯した罪の重さそのものとなって、肉に食い込んでいた。
彼は悟った。このブレスレットが自分に過去を見せ続ける理由を。これは「罰」なのだ。自らの罪を、成功の美酒で誤魔化すことを許さず、永遠に追体験させられるという、地獄の責め苦。
そして同時に、微かな直感が告げていた。これは、彼自身が彼を救うために用意した、最後の「禊(みそぎ)」の機会なのかもしれない、と。
翌日の午後。兼司は、まるで何かに憑かれたような虚ろな足取りで、再び南船場の「ブランドクラブ」を訪れた。一晩で十年は老け込んだかのような、生気が抜け、憔悴しきった彼の顔を見て、沙耶は息をのんだ。しかし、彼女は何も聞かず、ただ静かに彼を店内のいつもの席に招き入れた。
出された茶にも手を付けず、兼司は長い沈黙の後、重い口を開いた。
「…何か、お分かりになったのですね」
沙耶の静かな問いかけが、ダムの決壊の引き金となった。
兼司は、カウンターの椅子に深々と体を沈めると、ぽつり、ぽつりと、自分の過去を語り始めた。誰にも、どの愛人にも、どの部下にも話したことのなかった、彼の魂の告白だった。
西成の泥水の中から這い上がることだけを考えていた若き日の焦燥。村上水軍の末裔というプライドが、いつしか弱者を食い物にするための歪んだ正当化に変わっていった過程。野心に目を曇らせ、人の道を外れたこと。そして、最も信頼していた友を死に追いやり、最も愛した女性を絶望の淵に突き落とした、あの雨の日の事務所の出来事。
それは、成功者「西成の金融王」の武勇伝ではなかった。一人の、取り返しのつかない過ちを犯した愚かな男の、惨めで、血を吐くような懺悔だった。
「村上水軍の末裔が、聞いて呆れるわ…」
兼司は自嘲気味に呟き、両手で顔を覆った。指の隙間から、しわがれた声が漏れる。
「海の男はな、仲間を、家族を、何よりも大事にする。一度乗せた船員は、命を懸けて守る。それが水軍の掟、誇りやったはずや。わしは、その高貴な血に、自分の欲望という泥を塗ったんや。一番大事なダチを裏切り、守ると誓った女一人守れんかった。わしは海賊王なんかやない。ただの、孤独な銭ゲバや…」
沙耶は、相槌さえ打たず、ただ真っ直ぐに兼司を見つめ、彼の言葉の一言一句を、その魂の叫びを、受け止めていた。彼女の目にも、光るものが浮かんでいた。
すべてを話し終えた兼司は、椅子から立ち上がると、孫ほども歳の離れた沙耶に向かって、深々と、床につくほどに頭を下げた。
「…すまなかった。こんな薄汚い話を、あんたのような綺麗な人に聞かせてしもうて」
その謝罪は、目の前の沙耶に向けられたものであり、同時に、夢の中の正彦とさち、そして彼が踏みつけにしてきたすべての人々に向けられた、四十数年越しの、心からの贖罪だった。
店内には、長い沈黙が流れた。空調の音だけが響く。
沙耶は、しばらく天を仰いで、何かを決意するように目を閉じていたが、やがて静かに立ち上がり、店の奥から一冊の古びた革張りのノートを持ってきた。
「昨日、お客様がお帰りになった後、気になって、祖父が遺した古い製作記録や日記を、夜通し読み返してみました。村上様というお名前は、やはり見つけられませんでした。祖父は顧客のプライバシーを厳守する人でしたから」
彼女はノートの、栞(しおり)が挟まれたページを開いた。
「ですが、昭和五十二年。今から四十八年前のある冬の日の日記に、非常に印象的な、震えるような筆跡の記述がありました。ある一人の男性から、特別なブレスレットの製作依頼を受けた日の記録です」
「特別な…依頼?」
「はい。読んでみます」
沙耶は、朗読を始めた。
『今日、奇妙な、しかし強烈な印象を残す依頼人が来た。年の頃はまだ三十前だろう。身なりは良いが、その目は死んでいた。いや、死んでいるのではない。その瞳の奥には、百年分にも匹敵するほどの、深く、暗い後悔の炎が宿っていた。
彼は、震える手で札束の山をテーブルに積み上げ、こう言った。
「金ならいくらでも出す。わしが用意できる最高の金と、一点の曇りもない最上級の石を使ってくれ。デザインは喜平や。とにかく重く、太く、逃げ出せない手錠のようなものがいい」
私がなぜかと問うと、彼は虚空を見つめて答えた。
「わしは、人生で最も大切なものを、二つ、自らの手で壊してしまった。この後悔と、自らへの戒めを、死ぬまで片時も忘れんために。わが罪の証を、この腕に刻む消えない鎖を、形にしてほしいんや」と。
私は彼の業の深さに戦慄したが、職人として、その想を受け止めることにした。これは、ただの装飾品ではない。一人の男の、魂の墓標だ』
読み終えた沙耶は、静かにノートを閉じた。
「お客様。このブレスレットをオーダーしたのは、見ず知らずの他人ではありません。若き日の、あなたご自身だったのではありませんか?」
兼司は、言葉を失い、その場に立ち尽くした。
そうだ。今、封印されていた記憶の扉が完全に開き、鮮明に思い出した。
さちを失い、正彦の訃報を聞き、自責の念で発狂しそうになっていたあの日々。彼は、死ぬことさえ許されないと感じ、知り合いを通じて、南船場にいるという伝説の職人、水瀬正太郎を訪ねたのだ。
「わしの全財産をはたいてもええ。わしの罪の証を作らせてくれ」
そして、数ヶ月後に届けられたのが、この重すぎるほどの、ダイヤが埋め込まれた喜平ブレスレットだった。彼はそれを「罪の鎖」として腕に巻いた。
しかし、人間とは弱い生き物だ。事業が拡大し、西成の頂点へと駆け上がっていく喧騒と、金がもたらす快楽の中で、いつしかその痛烈な罪の記憶は、意識の奥底へと都合よく追いやられていった。ブレスレットは、いつしか「戒めの証」から、他人を威圧するための「成功の象徴」へと、その意味合いを自らの中で欺瞞的にすり替えられた。そして彼は、この鎖に込めた本来の慟哭を、完全に忘却してしまっていたのだ。
四十八年の時を経て、ブレスレットに量子レベルでインプリントされていた彼自身の「後悔の記憶」が、老いて弱り、死を意識し始めた彼の魂と、再び強力な共鳴を始めたのだ。
「お客様がご覧になっているのは、単なる過去の夢ではありません。それは、お客様ご自身の魂が、あなたに送っているSOSであり、過去のあなたからのメッセージです」
沙耶の言葉には、不思議な癒しの力があった。
「そして、その辛い記憶を追体験することで得られる深い眠りは、最新の『睡眠神経科学における記憶再固定化と情動処理仮説』で説明できるかもしれません」
「…どういうことだ?」
「人は、レム睡眠中(夢を見ている時)に、日中の記憶を整理し、特に強い感情を伴う記憶の『毒抜き』を行います。通常、トラウマ的な記憶は処理しきれずにフラッシュバックしますが、お客様の場合、このブレスレットが強力な媒介(トリガー)となり、封印されていた記憶の再処理が、睡眠中に強制的に、しかし安全な形で行われているのです。夢の中で過去と向き合うことで、脳内で一種のカタルシス(浄化)効果が生まれ、長年魂を縛り付けていた精神的な負荷が軽減された。その結果、自罰的な不眠が解消され、睡眠の質が劇的に改善されている…そう考えられます」
「カタルシス…浄化、か」
「はい。このブレスレットは、あなたを罰し続けているのではありません。あなた自身が、四十八年かけて、ようやく自分を赦す準備ができた。そのための、最後の機会を与えてくれているのです。過去の事実は変えることはできません。でも、過去と向き合い、その意味を自分の中で変えることは、生きている限り、できるはずです」
沙耶の言葉は、まるで春の陽光のように、七十年かけて凍り付き、凝り固まっていた兼司の心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていった。
「わしに…まだ、間に合うとおっしゃるのか」
「村上水軍は、どんな嵐の中でも、決して舵を放さなかったと聞きます。お客様の人生の航海も、まだ終わってはいません」
第四章:時を超えた贖罪、陽だまりの笑顔
その夜。兼司は、これが最後の旅になると予感しながら、静かにブレスレットを腕に巻き、ベッドに入った。ダイヤモンドを撫でる。「頼む、あわせてくれ」。祈るように目を閉じた。
そして訪れた夢は、やはりあの場面だった。
薄暗い「村上商事」の事務所。タバコの煙、正彦の土下座、そして、さちの軽蔑の眼差し。人生で最も変えたい、しかし決して変えられない、あの決定的な断絶の瞬間。
しかし、今までの夢とは決定的に何かが違っていた。
兼司は、もはや透明な壁の向こう側から嘆くだけの傍観者ではなかった。彼は、あの日の、若く、怒りと野心に満ちた自分自身の身体の中に完全に入り込んでいた。心臓の鼓動、血の巡り、握りしめた拳の痛みをリアルに感じる。
自分の意思で、言葉を発し、身体を動かすことができる。
「あなたとは、もう二度と会いません。あなたは、人の心を持たない、ただのケダモノや」
さちが、絶望に黒く染まった瞳でそう言い放ち、踵(きびす)を返して事務所の扉へと向かう。歴史通りの結末。これまでの夢なら、ここで身体が動かず、ただ彼女が去るのを見送るしかなかった。
だが、今は違う。七十年の悔恨が、老いた魂が、若い肉体を突き動かす。
「待ってくれ、さち!!」
若い兼司の口から、獣の咆哮のような、なりふり構わぬ絶叫がほとばしった。
その声のあまりの切実さに、さちは驚いて足を止め、ゆっくりと振り返る。その瞳には、変わらぬ軽蔑と、深い悲しみの色が浮かんでいた。
「…何を、今更。もう、あなたと話すことは何もありません」
「頼む!一言でええ、聞いてくれ!わしは…わしは、取り返しのつかんことをしようとしている!いや、したんや!」
兼司は、部下たちが見ているのも構わず、革張りの椅子を蹴倒して立ち上がり、さちと、まだ床に伏せている正彦の前に駆け寄った。
「わしは間違っていた!金が全てやと思うた。水軍の誇りを、弱いもんを虐げる言い訳にした。正彦、すまん、わしが悪かった!借金はええ、チャラや!いや、わしがもっと支援する!だから死ぬな!生きてくれ!」
彼は、錯乱したように叫び続けた。現実は変えられないことを知っている。正彦は死に、さちは去る。これはただの夢だ。だが、それでも言わずにはいられなかった。
「さち、お前を…お前だけを愛していた!お前がわしの港やったんや!それをわしは、自分の手で壊した!すまん、すまん!」
言葉は拙く、支離滅裂だった。だが、そこには、金融王としてのプライドも、水軍の末裔という矜持さえもかなぐり捨てた、一人の裸の魂の、七十年分の後悔と、四十八年間伝えられなかった真実の想いが込められていた。
兼司は、その場に崩れるように膝をつき、床に額をこすりつけて土下座をした。
「許してくれとは言わん!ただ、わしのこの愚かさを、知ってくれ…!」
夢の中の若い彼も、現実のタワーマンションのベッドで眠る老いた彼も、同時に、顔をくしゃくしゃにして、子供のように熱い涙を流していた。
その時、奇跡のようなことが起きた。
夢の中の時間が止まったように静まり返った。
軽蔑と絶望に満ちていたさちの表情から、ふっと力が抜け、険しさが氷解していく。そして、彼女の顔に、彼の記憶の中にだけ大切にしまわれていた、あの懐かしい、陽だまりのような優しい笑顔が浮かんだ。
彼女はゆっくりと兼司の前にしゃがみ込み、泣きじゃくる彼の頭に、そっと手を置いた。その手は温かかった。
「…やっと、言ってくれたんですね、村上君。ずっと、その言葉を待っていました」
さちの声は、春の海のように穏やかだった。
「あなたはもう、自分だけの欲望の船に乗る、荒くれ者の海賊じゃないのね。ちゃんと、人の痛みを知る、立派な船長さんになれたんやね」
「さち…」
彼女の姿が、足元からゆっくりと、柔らかな黄金色の光の粒子となって溶け始めていく。夢が終わるのだ。
「正彦さんも、きっと分かってくれます。だから、もう自分を責めないで」
彼女は微笑んだまま、光の中に消えていく。
「さようなら、兼司さん。あなたのこれからの航海が、どうか、穏やかで、幸せなものでありますように。港は、あなたの心の中にいつもあるから」
声だけが、事務所の淀んだ空気を浄化するように、優しく、そして温かく響き渡った。
そして、兼司の意識は、光の渦に飲み込まれ、再び深い眠りの中へと沈んでいった。
しかし、それはもはや、過去の痛みをえぐる旅ではなかった。ただ、どこまでも広く、穏やかで、温かい、故郷の凪の海に抱かれているような、完全なる安息の眠りだった。
夜が明けた。
兼司が目を覚ますと、防音ガラスの向こうから、素晴らしい快晴の朝日が差し込み、彼の顔を優しく照らしていた。
彼はベッドに身を起こし、大きく伸びをした。身体が羽のように軽い。心にあった重い鉛が、完全に消え去っていた。
腕のブレスレットに目をやる。ダイヤモンドたちは、朝日を浴びて、これまで見たこともないほど、温かく、そして慈愛に満ちた、虹色の輝きを放っていた。
97グラムの金の重みを感じる。しかし、それはもはや「罪の鎖」の重さではなかった。それは、彼の七十年間の人生そのものの、悲しみも、喜びも、取り返しのつかない後悔も、すべてを内包し、受け入れた、「人生の錨」としての確かな重みだった。
「ありがとうな…」
彼はブレスレットをそっと撫でた。
彼の不眠は、その日を境に、嘘のように消え去った。
終章:令和のハッピーエンド、未来への船出
季節が巡り、初夏の風が大阪の街を吹き抜ける頃。
西成の街に、一つのニュースが駆け巡り、ローカル紙の片隅を飾った。
「西成せとうち育英会」設立。
経済的な理由で、大学への進学や、専門的な技術の習得、あるいは芸術の道を諦めざるを得ない、西成やその周辺地域の若者たちを支援するための、返済不要の奨学金財団である。
設立者は、村上兼司。
彼は、長年かけて、時に強引に、非情に築き上げた莫大な私財のほとんどすべてを、この育英会の基本財産として投じたのだ。「西成の金融王」は、その忌まわしい呼び名と共に、実業界の表舞台から完全に姿を消した。
今の彼は、質素なアパートに移り住み、財団の理事長として、若者たちの夢の話を聞くことを何よりの楽しみにする、ただの好々爺となっていた。街の若者たちからは、親しみと、少しの畏敬を込めて「村上の爺さん」と呼ばれている。
ある晴れた午後。
南船場の「ブランドクラブ」の自動ドアが開き、穏やかな表情の兼司が訪れた。
かつての威圧的なイタリア製スーツではなく、洗いざらしの清潔な麻のシャツに、歩きやすいスニーカーという出で立ちだ。そして、彼の腕には、もうあの重々しい喜平ブレスレットはなかった。
「水瀬さん、長いこと世話になったな」
沙耶は、作業の手を止め、心からの満面の笑みを浮かべて彼を迎えた。
「村上さん。ようこそお越しくださいました。本当に…素晴らしい、穏やかなお顔になられましたね」
「ああ。おかげさんでな。毎晩、赤子のようにぐっすり眠れとるよ」
兼司は照れくさそうに頭をかいた。
「あのブレスレットは、どうなさいましたか?」
「ああ、あれか。あれは、わしの元での役目を立派に終えてくれた。わしを赦し、新しい道へ導いてくれたんや。今は、海外のチャリティーオークションに出して、その売却益もすべて育英会に入れた。きっと今頃、世界のどこかで、また別の誰かの『錨』になっとるはずや」
兼司にとって、もはやあのブレスレットは、成功の象徴でも、罪の証でもない。自らの過去と真摯に向き合い、未来への希望を繋ぐための、大切な羅針盤だった。
「実はな、水瀬さん。今日は、あんたに礼を言いに来ただけやないんや」
兼司は、ポケットから、小さな、しかし上質なベルベットのケースを取り出し、カウンターに置いた。
「わしの、人生最後の、個人的な仕事や。あんたに、受け取ってほしい」
沙耶が不思議そうに、恐る恐るケースを開ける。
そこには、細く繊細なプラチナのチェーンで繋がれた、シンプルな一粒ダイヤモンドのネックレスが収められていた。トップのダイヤモンドは決して大きくはないが、内側から強い光を発光するような、極上の輝きを放っていた。その光は、かつてあのブレスレットの中で兼司を導いた、あの光そのものだった。
「これは…?」
「あのブレスレットをオークションに出す前にな、一粒だけ、わしが一番綺麗やと思うた石を外しておいたんや。それを、別の職人に頼んでネックレスにしてもろうた」
「そんな、貴重なものを、私がいただくわけには…」
「いや、あんたが持つべきなんや」
兼司は穏やかに、しかし力強く言った。
「あんたの爺さんの日記にな、わしが頼んだブレスレットの記述の最後に、こうも書いてあったのを、あんたは読み飛ばしておったようやが」
兼司は、自身の記憶の中にある、水瀬正太郎の日記の一節を暗唱した。
『…いつか、あのブレスレットの持ち主が、自らの罪と向き合い、重い鎖から解き放たれ、真実の愛の意味を知った時。その時が来たら、このブレスレットに使った石で、未来を照らす小さな光を作ってやってくれ。それが、私の孫の代になるかもしれんが、それが職人としての私の最後の願いだ』
沙耶の大きな瞳から、大粒の涙が溢れ出し、頬を伝った。
「祖父が…そんなことを…」
そのダイヤモンドは、亡き祖父・正太郎と、依頼人・兼司、そして孫の沙耶を時を超えて繋ぐ、奇跡の結晶だった。祖父は、罪に溺れていた若き日の兼司が、いつか必ず更生し、光を見出す日が来ることを、四十八年前から信じ、予見していたのだ。
「ありがとう…ございます。大切に、生涯大切にします」
沙耶はネックレスを胸に抱きしめた。
兼司は満足そうに深く頷くと、店の外、御堂筋の並木道に目をやった。
ガラスの向こうには、育英会の第一期奨学生として選ばれた、西成出身の一人の少女が立っていた。彼女はジュエリーデザイナーを目指しており、今日は兼司の紹介で、沙耶に自分のデザイン画を見てもらう約束をしていたのだ。緊張した面持ちで、しかし希望に満ちた目で店内を見つめている。
「爺さん、わしは、これからや。これからが、村上兼司の本当の人生の始まりなんや。水軍の末裔として、今度は若者たちの船出を支える、ええ水先案内人になったるつもりや」
兼司は、未来のデザイナーである少女に手招きをし、そして、亡き祖父の遺志を継ぐ沙耶に、最高の笑顔を向けた。
彼の顔には、かつての「金融王」の冷酷な影は微塵もなかった。そこにあったのは、七十年という長い、嵐と暗闇の航海を終え、ようやく心の凪いだ港に帰り着き、そして新たな世代の船出を見守る、一人の人間の、深く、味わい深く、そして何よりも晴れやかな笑顔だった。
南船場の洗練された街並みに、令和の時代の、優しく柔らかな初夏の陽光が降り注ぐ。ショーウィンドウの中で、ダイヤモンドのネックレスが、過去の痛みを乗り越えた希望の光を放って輝いた。
それは、金とダイヤモンドが紡ぎ出した、時を超えた贖罪と再生、そして愛の物語。一人の老人が、自らの罪と向き合い、未来への光を若者たちに託した、ささやかで、しかし何よりも強く美しい、ハッピーエンドのジュエリーストーリーだった。